基本書について(総論)

  • 2008/05/28(水) 05:08:35

「基本書」というターム 
は、司法試験受験生の間で何十年も昔から使い 古されてきたスラングだが、昨今では、「研究者(大学教授)の著した体系書」を指すと解する学生が多い。
 この誤解は些細な事柄だが、「法律の学習」についての誤解と一体化しているように思えるので、念のため書いておく。

「基本書」とは
 文字通り、「各自が勉強の基本として用いている書物」 を指す。
 ここに「基本として用いている」とは、学習する際の前提知識・思考の根拠・ 論理の出発点となる記述を求めることであり、「書物」というのは、物理的に一冊にまとまっていることを意味する。
 それゆえ、可能性としてはあらゆる本が基本書として選択されうる。
過去問集(多くは解説付であろうが)や、判例付六法でさえ、基本書になりうるはずだ。
 しかし、現実的な各種の考慮(表現すると下品なので敢て書かない)から、現(または元)司法試験委員が著した体系的教科書を基本書として選択する者が、結果として多くなるに過ぎない。

さて、「法律の学習」
によって
獲得された新情報は、基本書上の記述に関連付けられてメモ(追加)される。そのため、基本書には書き込みがなされ、線が引かれ、色が塗られ、付箋が貼られていく。
 「その作業」=「法律の勉強」と考えてしまうとすれば、それは錯覚だが、しかし、その作業を経験しない法学徒は存在しないはずだ。
 知識を整理し体系化し集約するのは、少なくともアリストテレス以来、人間知性の「本能」なのだから。 
 話が脱線しそうなので元に戻す。
 この作業の物理的負担を少しでも減らそうとするために、もともとからしてたくさんの情報が書き込まれてある分厚い「基本書」を選択する人もいる。
 民法だったら、有斐閣の「注釈民法」シリーズを基本書にすれば、さぞかし手間が省けるだろう(冗談だよ)が、そんな選択をする人は、いないはずだ。
 なぜか。
 もちろん、「物理的に一冊にまとまっていること」という要件を充たしていないから、と言ってもよいが、端的に言えば、「多すぎる」からである。

基本書は、できる限り薄くなくてはいけない。
 往年の代表的基本書のほとんどは、現在では絶版になってしまい、手に取ることは難しい。もし、見ることができればわかるが、宮沢俊義先生の「憲法供廖碧[С愾棺検砲蓮◆屬△燭蕕靴し法のはなし」(昭和22年)の兄貴分ぐらいの筆致だし、木村亀二博士の「新刑法読本」も団藤重光博士の「刑法綱要(初版)」 も薄い本である。兼子一博士の体系書も現在の基準から見れば決して厚い本ではない。

あたらしい憲法のはなし(文部省)

 



 そして、先達の法学徒の多くが、我妻栄博士の「民法講義」の存在にもかかわらず、受験生時代に限っていえば、「ダットサン」を基本書として選択していたのだ。
 なぜか。

「300頁を超える書物は通読に適さないと思います。」
 或る元試験委員の言葉だ。そして体系書を著される際にもその要請を御自身に課された。そのような制約の下に体系書を書くのは非常に厳しいタスクのはずだ。
 その先生は次のようにも言われた。
 「諸君、知識というものはしょせん陳腐なものです。」 

 これ以上の長文は本意に反するので端折ってまとめてしまおう。
 「法律の学習」に際し、法学徒は肝に銘じなければならない。  

情報は(少なすぎるのは論外だが)多すぎてはいけない。
 基本書は厚すぎてはいけない。
 必要最小限の、しかし、よく切れるナイフのような基本書を選ばなければならない。
 その理由は、ただ一つ。 

 試験問題を解く際には、基本書の記述を、正確に、かつ縦横無尽に、使いこなす必要があり、そのためには、(試験場に基本書の持ち込みが許されない以上)、基本書の記述を一字一句余さず頭に入れておく必要があるからである。

 注釈民法は、基本書には適さない。
 判例六法も、基本書には適さないだろう。

 

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